民俗学の父と呼ばれている柳田國男は少年期を現在の加西市北条町で過ごしました。
このことは柳田國男の回顧録といえる「故郷七十年」で語られています。
著名でファンも多い柳田國男だと思いますが、僕が柳田國男のことをちゃんと知ったのはごく最近のことで、別で投稿した「旅が学びであること」で紹介した「深掘り観光のススメ」(井口貢著)で引用されていた柳田国男の思想に惹かれたのがきっかけです。
しかも、彼が僕と同じ兵庫県の出身であり、加西市に隣接する福崎町で生まれて加西市に引っ越してきたことを初めて知った時はとても興奮してしまい、福崎町に記念館と生家があるというのですぐに行ってみました。
北条町から神崎郡福崎町までは車だと20分程で近いですが、柳田國男は幼少期に福崎町から北条町までお使いで往復していたらしく、大したものだなぁと感心しました。
柳田國男は北条町の高等小学校(現代の中学1~2年生に相当)に入学します。
そして明治十八年に大飢饉を経験するのですが、これが民俗学の研究へ導いた一つの動機になったと自身が述べています(「故郷七十年」)。
ちなみにこの飢饉について書かれた石碑が北条町(ルートインホテルの近く)にあります。
さて、そんな柳田國男が「故郷七十年」に残した示唆に富む一節があります。
「北条という町は、もう少し郷土史の研究家たちによって探索さるべき土地柄なのであろう。
(中略)天領であったために、人々の改変の手が加えられておらず、古い遺跡が残存しているのである。
(中略)いわば北条は播州の一つの都であった」
この点について、柳田國男が望んだレベルか否かはさておき、加西の郷土史などを拝読すると後世の人々の努力によってよく研究されていると僕自身は素人ながら感心しているし、古い遺跡のみならず近代の戦争遺産までもが多く残されていることは加西の特長だと思います。
こういった文献にはもちろん書かれていませんが、加西の土地と人々には特別なDNAが受け継がれているのだろうと僕は考えています。
加西市北条町が主要な街道の交差点であり、古くからヒト・モノ・情報が交流し、集積してきたと考えられるということを先の投稿で書きました。
つまり、外からやってきた新しいヒト・モノ・情報を受け入れ、古い事も大切にしながら新しい価値を生み出し、街を発展させてきたマインドが加西で受け継がれてきた風土なのではないかと、僕は勝手に想像しています。
これが、僕が加西市を事業の拠点に選んだ大きな理由の一つです。
ビジネスグランプリが開催されていることや、加西での起業を支援してくれる一般社団法人ユニテさんのような民間団体が存在していることで、次代を担うアントレプレナーが地域外からも集い、新しい価値が生まれ始めています。
僕もその一員として、微力ですが加西、播州の歴史を創っていけたらと思います。